2017/02/09

「けものフレンズ」からうける味わったことのない感覚

今、けものフレンズが最高に面白い。

現時点で5話放映済みといったところで、ネット界隈でも
「すごーい」「たーのしー」と妙な盛り上がりを見せ拡散中。
様々な作品考察、感想など日々あげられているのですが
個人的にも、この「けものフレンズ」という作品に感じている魅力とはなんなのかを
まとめておこうと思います。

自分が「けものフレンズ」という作品に感じる魅力、それを一言でまとめてしまうと

「今まで味わったことのない感覚を味わえる」

といったところでしょうか。

ではその味わったことのない感覚がなんなのか、順をおって説明していきたいと思います。

「けものフレンズ」の1話をみた段階での予備知識として持っていたものは、原作はアプリゲームですでにサービスが終了している。動物の擬人化美少女ものである、という二点だけ。
ほぼ何も知らない状況で1話を見た時の感想としては、「あ、こりゃダメなアニメだ」だった。
この内容のなさで30分枠でやるのかというテンポ、CGはやすっぽい。サーバルちゃんはお世辞にも演技巧いとは言えない。見ているとだんだん頭が悪くなっていく、ゆるさとほわほわさ。

正直、1話で切ってもおかしくない中身と出来だったといっても過言ではなかった。
しかし、このゆるさとほわほわした感覚、疲れた体と心には心地いい気がして、なんとなく2話もみてしまうことになる。

2話前半、1話に続きゆるゆるほわほわ、面白いかといえばそんなに面白くない。
しかし後半壊れたバスを見つけ、フレンズたちと協力してバスを直す。が、バッテリーが切れていて充電する必要がある、と3話へと続く。この流れの中で、ひとつ気づく。
この物語、作品の構造が、未知の世界を探検していく冒険ものであるということに。
そして謎解きのアドベンチャーRPGのようなクエストの発生とクリア、目的の達成を繰り返しあるいは連鎖させていくことで進んでいるのだということ。
それがわかると、2話が少し面白く感じてくる。

そして3話、2話のバスに続き、朽ちて使われなくなったロープウエイが登場する。2話で感じた冒険RPG的要素の面白さはさらに補強れ、さらに、ここに至って、どうもこのジャパリパークはすでに廃墟になっているのではないか、という疑惑が明確になってくる。
遊園地の廃墟がモノクロで映し出されるEDが、すでにそれを暗示しており、その疑惑を補強し、それまで、それを暗示する情報が、3話までの間にちりばめられていたことに気づく。

けもの少女がゆるゆるほわほわなんかしている表層のイメージで隠蔽し、徐々にその作品世界の様相を明らかにしていく。
その作品構造の裏が実は、本格的なSFであり冒険ものであることを、3話まで小出しにされ情報から類推し、気づいたものだけが気づくように配置されている。
その構成の巧みさにしびれる。
しかしあくまでこの作品の主体は、けもの少女のゆるゆるほわほわの、「すごーい」「たーのしー」に集約される。
SF的冒険もの的これらの要素はその従であることは間違いないはずだ。

表層であり主体であるかわいいけもの少女のゆるゆるほわほわ、それと同時不意に伺わせる不穏なイメージと本格SFと冒険もののハードな側面。
この2つを両立した作品を少なくとも自分は知らない。
故に「味わったことのない感覚」をおぼえるのだと思う。

そしてもう一点、この作品でしか味わったことのない感覚、それはヒトとけものの関係性描き方にある。

主人公であるかばんちゃんはヒトであるらしい。
ヒトなのかヒトが「フレンズ化」した存在なのか、かばんちゃんが記憶をなくしているためにそこははっきりと明示されていない。
しかし、かばんちゃんはフレンズたちにとってはおなじ「けもの」であり「フレンズ」であると認識されている。
かばんちゃん自身も自分が「人間である」という自覚がなく、サーバルちゃんと同じけもの、フレンズであると思っている。

これは、非常に特別で重要なことなのではないかと思う。

人語を解する動物や擬人化された動物、獣人が出てくる作品というのは少なくない。
そういった作品の中で、登場する「人間」は、どちらかといえば、けものたちにとって、悪であり自分たちの領域を犯すあるいは奪う存在として描かれることが多いのではないか。
人間とけものが良好な関係にあってもなお、けものと人間の間にある差異や壁を描き、その境界、対立の克服を謳ったり願ったりするものが多くを占めているという印象が強い。
そこにはヒト種が、自然界のルールから外れ、環境破壊や絶滅種を生む原因になっている業を背負ってしまっているがゆえに、いわゆるエコロジーのテーマ的、思想的範疇から作品や世界観が呪縛されてしまっているからではないかと考えられる。

「フレンズによって得意なことは違うから」
サーバルちゃんがかばんちゃんにかけるこの言葉が象徴するように「けものフレンズ」の作品世界において、フレンズは「フレンズ化」する前の動物だった時の特性を持ち合わせていることが、描かれている。
そしてヒトである(と思われる)かばんちゃんは、その特性である「知恵」を使ったり、提供しながら問題を解決していく。
そしてそのたびに周りのフレンズたちに「すごーい」と感心され、肯定される。
ヒトがヒトであることをけものに褒められる。
「あなたは○○が得意なフレンズなんだね、すごーい!」と。

「けものはいてものけものはいない」というOPテーマの歌詞にあるとおり、他作品で「のけもの」として扱われる「ヒト」は、「けものフレンズ」の世界では同じけものの仲間「フレンズ」として同列に扱われている。
そこに対立構造や壁、境界は存在していないのだ。

「ヒトと動物が共生する世界」はこれまで、多くの作品で理想、遠い夢とされ、それを阻害する人間と動物の対立構造や壁を克服するものとして描かれてきた。
しかし「けものフレンズ」はその「理想の世界」を描いている。
それは今まで描かれたことのないヒトが望んだユートピアなのか?それはまだわからない。

ただ、今、少なくとも自分は、ここに描かれた世界に、味わったことのない不思議な感覚を味わっている。

それなりに生きて、それなりに色んな作品を見てきたつもりでも
まだ、味わったことのない感覚があった。
その驚きと興奮が「けものフレンズ」にはある。

故に「けものフレンズ」という作品に魅了されてやまないのだ。